この記事を書いた人 永嶋信晴
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世界最大と言われる市場とエキゾチックな文化に触れる旅 中央区築地、明石町を歩く
記事更新日: 2016-01-10
築地市場移転後も期待できる「築地場外市場」
今回行ったのは、東京中央区築地から佃島、月島の辺り。
サラリーマンをしていた頃は、中央区に6年近く通勤していました。また、独立してからも取引先の訪問などで何度も訪れた場所です。この辺りはもちろん東京の中心ですが、20年以上前は、オフィスより民家のほうがたくさん残っていた記憶があります。
築地から佃島や月島の辺りは、今東京でもっとも進化を遂げている場所かもしれませぬ。あと数年もしたら、未来都市のように変貌しているかも。…ということで、その変化のスピードを体感すべく訪れてみることにしました。
ウォーキングのスタートは、地下鉄日比谷線の築地駅。駅を出て、新大橋通りを港区方面に歩いて行くと、晴海通りの交差点にぶつかります。その先に、大勢の人たちが集まっている場所がありました。
ここは、築地場外市場。築地市場が卸や仲卸など業者販売を前提としているのに対し、場外市場は一般客や観光客を相手に商売する店がほとんどだとか。築地市場の規模は世界最大とも言われており、そこから仕入れた鮮度抜群の食材を堪能できるのですな。
それにしても、この大盛況は大晦日のアメ横を彷彿とさせるものがありまする。昔から混んでいた印象はありますが、最近はテレビやネットの影響で訪れる観光客が多いのでしょうね。海外のお客さんたちも多く見かけ、今や東京屈指の観光地のひとつですな。
ただ、築地が東京の食品流通の中心地となったのは意外と新しく、大正の終わりから昭和の始めらしい。その役割を江戸時代から背負ってきたのは日本橋の魚河岸。ところが、大正12年に関東大震災が起きて、日本橋の魚河岸は壊滅的な被害を受けてしまった。そこで、近くに隅田川や汐留駅など水運や陸運に恵まれていた築地に新たな市場を作ったのですか。
テレビや新聞のニュースでもやっていましたが、築地市場は2016年11月豊洲市場へ移転するそうですね。ただ、この場外市場は築地に残ると聞きました。何でも、中央区と協働し、新たな店舗区画からなる「築地新市場」の建設に取り組んでいるのだとか。やはり場外市場だけでは、新鮮な食材の仕入が難しいですからね。
築地市場の面積は約23ヘクタールもあるらしい。そこがどんな形で生まれ変わるのか、しばらく築地から目が離せなくなりそう。グルメはもちろん、さらに一般客が楽しめる施設を作ってほしいと思いました。
エキゾチックな建物が印象的な築地本願寺
築地場外市場からふたたび新大橋通りに出て、築地駅前に戻ると築地本願寺の特徴的な建物が目に飛び込んで来ます。
神社仏閣といえば、古式ゆかしい木造瓦葺の古刹が多いですね。そういうイメージで見ていると、エキゾチックなインドの寺院をイメージしてしまいます。有名人のお葬式の舞台として、テレビでもたまに登場するような。
築地本願寺のルーツは、江戸時代初期に中央区の東日本橋の近くに創建されたらしい。ところが振袖火事と呼ばれる明暦の大火で焼失してしまったそうなんですよ。その後、幕府は火事対策として区画整理を積極的に推進。そのあおりで元の場所への再建が許されず、代わりに許されたのが八丁堀の沖の海上だったとか。
まさに土地のない代替地といったところですが、この海上、佃島の門徒が中心となって海を埋め立てて、最終的に本願寺の土地を築いてしまったそう。
この埋め立て工事が、「築地」という名の由来だとか。築地本願寺とは、まさに土地を築いて本願寺を建てたという由緒を表していたのですね。
それにしても、この気になるインド風の建物は、再建された本堂が関東大震災で焼失したあと、昭和9年に完成したものらしい。この建物を設計したのは、東京帝国大学工学部名誉教授の伊東忠太。当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りの本堂になるのですな。
個人的には、木造建築を模して鉄筋コンクリートの建物を作るよりも、エキゾチックな建物を鉄筋で作る方がしっくりくる感じがしました。その際、鉄筋が先か、デザインが先かという問題があるでしょうね。
昭和初期の時代の建物って、関東大震災の経験があるからやたら頑丈なイメージがあります。サイコロみたいに転がしても、壊れない建物とか…。いずれにしても、このインド風の寺院が、今や築地の顔となっていることは間違いありませぬ。
ほかにも、築地本願寺の境内には見どころがたくさんありますよ。私が注目したのは、酒井抱一のお墓。
「なんでも鑑定団」やNHKの「日曜美術館」などでよく紹介される画家ですね。彼の作品は、今も目の玉が飛び出るほど高い値段で取引されているそうです。
彼の出身は驚きですよ。なんと、姫路城で有名な播磨国姫路藩主の次男として江戸に生まれたとか。大名の子供なんて、そんじょそこらの良い家のお坊ちゃんではありませぬ。江戸下向中の京都西本願寺文如上人の弟子として出家し、抱一と号したところから、本願寺に葬られることになったのでしょうね。
姫路藩主の座についたお兄さんの名前は、まず一般人は知らないはず。大名の子よりも、絵師のほうが歴史に名前が残るというのもなかなか面白い。やはり、その道のプロになるのが教科書に名前が載るポイントかもしれませぬ。もちろん、桁外れの才能と努力が必要だと思いますが…。
意外と正式な読み方を知らない人が多い聖路加国際大学・聖路加国際病院
築地本願寺を出て、今度は新大橋通りを八丁堀方面に向けて歩き、すぐ右折してしばらく行くとピンクの美しい建物が見えてきました。
ここは、聖路加国際大学のキャンパス。私立大学として日本で初めて看護学部を設置し、看護の大学院博士後期課程も初めて設置するなど、日本の看護教育の老舗的な存在ですな。
ところで、突然ですが、クイズタ~イム~♪
聖路加と書いて、何と読むのでしょうか。
実は、私の知り合いの社長が、この点に疑問を持って、電話で問い合わせたことがあったそうなんですよ。特に、病院に入院したり、診察してもらったりする予定はなかったそうですが…。
答えは、「せいるか」。ただ、「せいろか」も俗称として一般的ではありますね。ホームページよれば、大学の名称は「ルカ福音書」の聖ルカに由来するそうです。日本語表記するとき、「聖留加」にしておけば間違われなかったのに、と思いました。
今は大学として使われている旧病院棟の保存部分は、1933年竣工。
敷地内にあるトイスラー記念館は、昭和8年、隅田川畔の場所に聖路加国際病院の宣教師館として建設されたものを移築したのですか。
鉄筋コンクリート造り2階建てで、一部が木造なのですな。今見てもモダンな建物で、春のうららの隅田川のほとりにあった頃はさぞ風景とマッチしていたでしょうね。
その先にある大学と同じくピンク色のオシャレな建物は、聖路加国際病院。最近は、大学を中心に「国際」というネーミングがトレンドになっていますが、築地居留地時代からの歴史と伝統のある「国際」なのですね。
聖路加国際病院といえば、大ベストセラー『生きかた上手』の記憶が新しい日野原重明名誉院長が知られておりまする。患者満足度調査でも、常に上位をキープしている病院としても有名ですね。
聖路加国際大学周辺は、有名人ゆかりの場所のオンパレード
この中央区明石町周辺にはさまざまな歴史的な記念碑を見ることができます。まずは、先日紹介した慶應義塾に関するもの。
なんと、慶應義塾の起源がこの場所だそうです。ときは、安政5年。福澤諭吉が中津藩奥平家の中屋敷内に開いた蘭学塾がこの場所にあったそうですよ。
そして、忠臣蔵で知られる浅野内匠頭がここで生まれたのだとか。
私は播州赤穂で生まれたものだとばかり思っていました。ここは江戸時代、鉄砲洲と言われ、浅野家の上屋敷があった場所ですからね。
別の有名人もここで生まれておりまする。それは芥川龍之介。
又吉直樹が芥川賞を取りましたが、芥川龍之介が存在しなかったら受賞はなかったかもしれませぬ。もっとも別の名前の文学賞を受賞したと思いますが…。
先の慶應義塾の創立記念碑の後ろに建っているのが、「蘭学事始の地」の石碑。
前にも書きましたが、ここは江戸時代、豊前中津藩奥平家の下屋敷のあったところ。そこの藩医で蘭学者の前野良沢や杉田玄白らがオランダ語の医書ターヘル・アナトミアを翻訳し、「解体新書」を完成させたのは教科書にも載っていますね。
その翻訳作業が、前野良沢の役宅のあったこの場所で開始されたのですか。現在、西洋医学のトップを走る聖路加国際病院にとって、「蘭学事始の地」はまさに絶好のロケーションなのだと感じました。